かつての私は、
「この感覚さえなければ、もっと楽に生きられたのに」
と思うことが何度もありました。
人の感情や、未来の片鱗が勝手に流れ込んでくるたび、
まるで透明な風景のなかに一人取り残されたような寂しさを感じたのです。
けれどある時から、少しずつ思いが変わっていきました。
それは、感覚を「封じる」ことが、自分の人生そのものを閉じてしまうような、そんな感覚に気づいたからです。
感覚を「閉じる」ことと、「育てる」こと
霊的な感覚を持っている人の多くが、人生のどこかで「閉じよう」とする選択をする時期があります。
- 霊能の強い子供が「何も見えないふり」をして生きていく
- 強い感受性を「気のせい」と押し込めて過ごす
それは防衛本能でもあり、自分を守る術でもあります。
でも同時に、本来の自分の感性を鈍らせてしまう危険もあります。
私は、怖さや苦しさと向き合うなかで、次第に、この感覚を「否定する」のではなく、「育てる」方向に変えていくという選択をしました。
ただしそれは、「訓練で何かを身につける」こととは違います。
“磨く”というのは、すでに自分の中にある感覚に光を当てること。
その輪郭を見つめ、どんな時に何が視えるのか、自分なりの地図をつくっていくような時間でした。
感覚を信じるということ
霊能という言葉には、どこか「特別」や「すごい」といった印象がついて回ります。
けれど私にとっては、その人を理解しようとする“感受のかたち”の一つでしかありません。
ある人は、言葉に強く。
ある人は、音に敏感に。
ある人は、身体の感覚に。
私にとっては、それが「視えたり」「感じたり」する形で訪れていたのです。
だからこそ、自分の感覚を信じるということは、誰かより優れていると思うことではなく、
“自分を知り、他者と深く向き合う”
ことでもありました。
誰の中にもある、光の扉
感覚を研ぎ澄ませていくとき、多くの人が気づき始めることがあります。
それは、
「霊的な力は、特別な誰かのものではない」
ということ。
確かに、もともと強く持って生まれた人はいます。
けれど、その感覚の芽は、実は誰の中にも眠っているのです。
たとえば、ふとしたときに心に浮かぶ「イヤな予感」や「直感」。
それが何度も当たった経験を、誰もが一度は持っているはずです。
それが研ぎ澄まされていくと、やがて「感覚」は「確信」に変わり、そして、日常の中で生きた“羅針盤”となっていきます。
感覚を閉じるのか、開くのか。
受け入れるのか、否定するのか。
その選択の先にあるものは、
「霊能」という言葉に縛られない、もっと自由で、もっと優しい、自分自身との対話
かもしれません。
